“ゲストハウスがない場所に行けない病”に罹っている
地図を眺めながら、次はどこのゲストハウスに泊まろうか考える時間が好きだ。
ひげむぅやFootPrintsには全国のゲストハウスがマッピングされたGoogleマップがあるので、しばしばこれを眺めては、次はどこを旅しようかと想いを巡らせる。めっちゃ楽しい。
先日もそんなふうに地図を見渡しながら「京都の伊根っておもしろそうだけど、ゲストハウスないから行けないんだよなー。」と考えていた。
そして気が付いた。
行けるよな?
うん、行けるよ普通に。ていうか「行けない」ってなんだ?
これほど交通機関の発達した日本において行けない場所なんてあるのか?
もしあるとすれば、摩耶観光ホテルとか軍艦島とか、立ち入りが制限されている場所だろう。それこそが「行けない」の定義だと言って差し支えないと思う。
それを踏まえたうえで、あらためて考えてみよう。伊根に行くことなどできるのか、と。
行けるよな?
うん、めっちゃ行ける。めちゃイケだよ。
多少アクセスは不便だけれど、電車とバスを乗り継いで普通にたどり着くよ。
じゃあ地図を眺めながら感じた「ゲストハウスがないから行けない」という気持ちはなんだったのか。
まあ、ある程度の推測はできる。アクセスが悪いから日帰りでは行けない、ということなのだろう。
確かに一理ある。日帰りだと滞在時間も限られるし、なにより一晩を過ごしてはじめてその土地を楽しんだと言えるのだから。
いやまて。
民宿とかあるよな?
ある。絶対あるよ。伊根だって観光地だもの。ていうかあった。いま確認した。
なんだ、よかった。伊根には行けるのだ。公共交通機関だってあるし、民宿だって何軒もあるのだから。
いやはや、無意識のうちに「ゲストハウスがない=行けない」と考えてしまっていた自分が恐ろしい。下手をすれば一生伊根に行けなくなるところだった。
しかしもう大丈夫。客観的事実をもってハッキリと認識できている。伊根には行けるのだ。
そうと決まればさっそく伊根への旅程について考えてみよう。どういうルートで行き、どんな宿に泊まり、どうやって過ごすのか。
と、ここでひとつの問題にぶつかった。
伊根には行けない。
わかっている。言っていることが支離滅裂なのは自分でもわかっている。
しかし、あれほどの理論武装で臨んだ伊根旅行の計画について俺の脳が出した結論は「伊根にはゲストハウスがないから行けない。」であった。
旅行するからには何が何でもゲストハウスに泊まらなければならないという強迫観念に縛られているとでもいうのだろうか。
もはや論理的な説明のつかない事象だ。おそらくは感情と深く結びついた問題であると察せられる。
かのデール・カーネギー氏も名著『人を動かす』のなかで、人は論理の動物ではなく感情の動物であると述べている。
さて、厄介なことになってしまった。感情的あるいは精神的な問題である以上、克服するためには精神科医にかかる必要があるのかもしれない。
はたしてそのとき、症状について医者になんと言えばいいのだろう。
医者:「どういったことでお悩みなのですか?」
俺:「伊根に行けるのはわかってるんですけど、行けないんです。」
言えるわけがない。
いつからこんなことになってしまったのだろう。
まったくもって困ったことだが、解決方法が見つからない以上、しばらくはこの問題――病気といってもいいかもしれない――と向き合っていく必要があるのだろう。
ああ、この気持ちを理解してくれる人がいるだろうか。同じように“ゲストハウスがない場所に行けない病”に悩んでいる人が俺の他にもいるだろうか。
あ、FootPrintsのダリさんならわかってくれるかもしれない。こんど聞いてみよう。